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ミリオンヒット及びレコ大ノミネート確実!
中西アルノへの手紙 ~虚構についてのファンレター(5枚)~
僕はアルノの真面目で不器用な所が好きです。アルノが歩んできた道は全てが意志によって舗装され強く輝いています。今や乃木坂46を眼差すファンは、語弊を恐れず言うのであれば、暗闇の中の輝きを好まなくなってしまいました。暗闇の中の輝きの尊さよりも、暗闇それ自体を自身の視野に収めることを嫌うからです。僕達乃木坂46のファンはコタツの中でアイスを食べ、外で降り積もる雪を景色にします。寒空の中で見るマッチの炎は強く輝いている。僕は乃木坂46以前のアルノに対し、強くこう感じました。乃木坂46はアルノを家に招き入れ、そして今僕達はコタツでゴロゴロするアルノを観ています。その温もりはインターネットで猫の動画を見続けるかのようで、子供の頃に降り積もる雪で遊びかじかんでしまった手の赤らみ、そのズキズキとした感覚を忘れてしまっています。
5期生が乃木坂46に加入してから、アルノを中心に乃木坂46を観るようになりました。僕が単純で”尾崎豊を歌う中西アルノ”という記号にマッチの炎を見出してしまったせいでしょう。或いは、アルノの目が黒く、目の前の景色(観客とサイリウム、これらの声援)を何も映していない所を目撃してしまったからかもしれません。今のアルノの眼はしっかりと乃木坂46を映しています。騒動の最中に「Actually…」で表題センターに選ばれたアルノは、今までで一番デビューを祝われなかったアイドルなのではないかと思います。あの理不尽に対して、アルノが気丈に振舞っているように見え、そして実際にあの時期を乗り越えられたのは、なによりアルノが乃木坂46を必要としていたからではないかと思うに至りました。今までのオーディションで乃木坂46に必要な人達が選ばれる中、アルノ本人が誰よりも乃木坂46を必要としていたからこそ乃木坂46の5期生に選ばれ、表題曲のセンターに選ばれたような気がします(生駒里奈や他1期生数人もそのような人物であったかもしれません)。その主従関係を引っ繰り返す意志こそ、今乃木坂46に一番足りていないモノのような気がします。
アルノはこれからどんなアイドルになっていくのでしょうか?アルノは未だに許せないことや怒りはありますか?闘う必要があると思っていますか?あるならば嬉しいし未来に期待をします。無いならばその方が嬉しいです。アルノにとって、乃木坂46はどのような場所になりましたか?温かいですか?生駒里奈や齋藤飛鳥、山下美月といった中心人物は、乃木坂46の温かさの中で、常にどうしようもなさと向き合い続けていたと思います。それは、乃木坂46という虚構を引き受ける際にどうしようもなく付いて回るものです。井上和もまた既に乃木坂46であることを求められ、『乃木坂46であること』と正面から闘い続ける運命にあります。アルノもまた表題曲のセンター経験者として『乃木坂46であること』と闘い続ける宿命を背負っていますが、その中身は正反対です。『乃木坂46であること』の重ねた年月が創り出してしまったつまらない規範を壊す存在としての宿命です。最早、これを無視することも出来るとは思いますが(それこそがアルノの持つ強さです)、これと闘い続けて欲しいというのが僕の至極勝手な願望です。
アルノは、そもそも虚構を愛していますか?虚構の自分を作りたいですか?それは、つまり俳優やアーティストという虚像への自己逃避が必要かという質問です。なぜこんなことを聞くのかと言うと、僕はアルノが乃木坂46を必要としていた理由は虚構の自分を生み出したかったからではないかと勝手に思っているからです。アルノが映画を恐ろしいほど観ている事はもうファンにとって周知の事実だと思います。映画鑑賞において得られる虚構へと飛び込んだ際の快楽、その最果てに乃木坂46への加入という選択肢が存在していたのだと僕は考えています。そうして乃木坂46へと飛び込んだ後、乃木坂46の先輩たちが舞台や映画・ドラマに出演していることからも、アルノも加入して早々に演技の道に進みたいと言及するのではないかと僕は思っていました。加入してからもう少しで2年が経とうとしている中、中西アルノが演技への欲望にストレートに言及していないのは、アルノが正しく「映画」の偉大さに対し恐れを抱いているからではないか?と思うに至りました。映画、虚構に対して憧れ畏れているからこそ安易に「やってみたいです!」等と言えないのではないかと。しかし、その畏れこそが最も俳優が持つべき感覚であると僕は思います。乃木坂46での活動、それ自体がまずほぼ現実とは思えないような光景であり、そこに身を置くことは虚構を生業とすることと近しいはずです。アイドルとしての生活は、他のメンバーも同様に、望む望まないに関わらず虚構へとアルノを引っ張っているはずです。”中西アルノ”と”乃木坂46の中西アルノ”との距離、その乖離が生じ始めていることに対する恐れを抱いていると、今のアルノを観ていると強く感じます。今のアルノは”中西アルノ”でいたいと思っているように見えます(そう思って乃木坂46の活動の中で”中西アルノ”でいられることもまたアルノの持つ強さです)。僕は、”乃木坂46の中西アルノ”が遠くに飛ばされてしまうことを受け入れたその先に広がる世界を、”中西アルノ”も求めているはずだと信じています。
中西アルノは乃木坂46よりも優しさの射程が広く、故に寂しいはずです。だからこそ、乃木坂46を導いていく存在になれると思っています。自身の立ち位置への怒りを持ち続けて欲しいと僕は思っています。寂しさを受け入れ続ける必要はありません。アルノのわがままは最早求められています。センターからアンダーセンターへ、そしてまた表題センターへと上り詰める中西アルノと、その節目節目の表情に期待をします。井上和と中西アルノという孤高が2人同時に存在する景色までそう時間はかからないはずです。アルノが乃木坂46よりも大きな虚構を生み出すことができる器だと僕は信じて止みません。そんな、中西アルノと画面を通して出会い、中西アルノが中西アルノでは無い存在として画面の中で人生を歩んでいる姿を僕は観たいです。テレビよりもライブよりも目の前に存在するよりも映画館の画面の中で輝く中西アルノで在って欲しいと僕は願います。映画が進むほどに俳優本人の生活、実存が遠ざかっていき、登場人物がさも存在し、永遠にこの物語を繰り返すことを恐れていないかのような、あの感覚を感じることができるならこれ以上嬉しいことはありません。偉大な虚構、映画史の中で燦然と輝くアルノを夢見てこの手紙を終えます。
2人がネオ白西かもしれんな!
中西アルノへの手紙 ~虚構についてのファンレター(5枚)~
僕はアルノの真面目で不器用な所が好きです。アルノが歩んできた道は全てが意志によって舗装され強く輝いています。今や乃木坂46を眼差すファンは、語弊を恐れず言うのであれば、暗闇の中の輝きを好まなくなってしまいました。暗闇の中の輝きの尊さよりも、暗闇それ自体を自身の視野に収めることを嫌うからです。僕達乃木坂46のファンはコタツの中でアイスを食べ、外で降り積もる雪を景色にします。寒空の中で見るマッチの炎は強く輝いている。僕は乃木坂46以前のアルノに対し、強くこう感じました。乃木坂46はアルノを家に招き入れ、そして今僕達はコタツでゴロゴロするアルノを観ています。その温もりはインターネットで猫の動画を見続けるかのようで、子供の頃に降り積もる雪で遊びかじかんでしまった手の赤らみ、そのズキズキとした感覚を忘れてしまっています。
5期生が乃木坂46に加入してから、アルノを中心に乃木坂46を観るようになりました。僕が単純で”尾崎豊を歌う中西アルノ”という記号にマッチの炎を見出してしまったせいでしょう。或いは、アルノの目が黒く、目の前の景色(観客とサイリウム、これらの声援)を何も映していない所を目撃してしまったからかもしれません。今のアルノの眼はしっかりと乃木坂46を映しています。騒動の最中に「Actually…」で表題センターに選ばれたアルノは、今までで一番デビューを祝われなかったアイドルなのではないかと思います。あの理不尽に対して、アルノが気丈に振舞っているように見え、そして実際にあの時期を乗り越えられたのは、なによりアルノが乃木坂46を必要としていたからではないかと思うに至りました。今までのオーディションで乃木坂46に必要な人達が選ばれる中、アルノ本人が誰よりも乃木坂46を必要としていたからこそ乃木坂46の5期生に選ばれ、表題曲のセンターに選ばれたような気がします(生駒里奈や他1期生数人もそのような人物であったかもしれません)。その主従関係を引っ繰り返す意志こそ、今乃木坂46に一番足りていないモノのような気がします。
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アルノはこれからどんなアイドルになっていくのでしょうか?アルノは未だに許せないことや怒りはありますか?闘う必要があると思っていますか?あるならば嬉しいし未来に期待をします。無いならばその方が嬉しいです。アルノにとって、乃木坂46はどのような場所になりましたか?温かいですか?生駒里奈や齋藤飛鳥、山下美月といった中心人物は、乃木坂46の温かさの中で、常にどうしようもなさと向き合い続けていたと思います。それは、乃木坂46という虚構を引き受ける際にどうしようもなく付いて回るものです。井上和もまた既に乃木坂46であることを求められ、『乃木坂46であること』と正面から闘い続ける運命にあります。アルノもまた表題曲のセンター経験者として『乃木坂46であること』と闘い続ける宿命を背負っていますが、その中身は正反対です。『乃木坂46であること』の重ねた年月が創り出してしまったつまらない規範を壊す存在としての宿命です。最早、これを無視することも出来るとは思いますが(それこそがアルノの持つ強さです)、これと闘い続けて欲しいというのが僕の至極勝手な願望です。
アルノは、そもそも虚構を愛していますか?虚構の自分を作りたいですか?それは、つまり俳優やアーティストという虚像への自己逃避が必要かという質問です。なぜこんなことを聞くのかと言うと、僕はアルノが乃木坂46を必要としていた理由は虚構の自分を生み出したかったからではないかと勝手に思っているからです。アルノが映画を恐ろしいほど観ている事はもうファンにとって周知の事実だと思います。映画鑑賞において得られる虚構へと飛び込んだ際の快楽、その最果てに乃木坂46への加入という選択肢が存在していたのだと僕は考えています。そうして乃木坂46へと飛び込んだ後、乃木坂46の先輩たちが舞台や映画・ドラマに出演していることからも、アルノも加入して早々に演技の道に進みたいと言及するのではないかと僕は思っていました。加入してからもう少しで2年が経とうとしている中、中西アルノが演技への欲望にストレートに言及していないのは、アルノが正しく「映画」の偉大さに対し恐れを抱いているからではないか?と思うに至りました。映画、虚構に対して憧れ畏れているからこそ安易に「やってみたいです!」等と言えないのではないかと。しかし、その畏れこそが最も俳優が持つべき感覚であると僕は思います。乃木坂46での活動、それ自体がまずほぼ現実とは思えないような光景であり、そこに身を置くことは虚構を生業とすることと近しいはずです。アイドルとしての生活は、他のメンバーも同様に、望む望まないに関わらず虚構へとアルノを引っ張っているはずです。”中西アルノ”と”乃木坂46の中西アルノ”との距離、その乖離が生じ始めていることに対する恐れを抱いていると、今のアルノを観ていると強く感じます。今のアルノは”中西アルノ”でいたいと思っているように見えます(そう思って乃木坂46の活動の中で”中西アルノ”でいられることもまたアルノの持つ強さです)。僕は、”乃木坂46の中西アルノ”が遠くに飛ばされてしまうことを受け入れたその先に広がる世界を、”中西アルノ”も求めているはずだと信じています。
中西アルノは乃木坂46よりも優しさの射程が広く、故に寂しいはずです。だからこそ、乃木坂46を導いていく存在になれると思っています。自身の立ち位置への怒りを持ち続けて欲しいと僕は思っています。寂しさを受け入れ続ける必要はありません。アルノのわがままは最早求められています。センターからアンダーセンターへ、そしてまた表題センターへと上り詰める中西アルノと、その節目節目の表情に期待をします。井上和と中西アルノという孤高が2人同時に存在する景色までそう時間はかからないはずです。アルノが乃木坂46よりも大きな虚構を生み出すことができる器だと僕は信じて止みません。そんな、中西アルノと画面を通して出会い、中西アルノが中西アルノでは無い存在として画面の中で人生を歩んでいる姿を僕は観たいです。テレビよりもライブよりも目の前に存在するよりも映画館の画面の中で輝く中西アルノで在って欲しいと僕は願います。映画が進むほどに俳優本人の生活、実存が遠ざかっていき、登場人物がさも存在し、永遠にこの物語を繰り返すことを恐れていないかのような、あの感覚を感じることができるならこれ以上嬉しいことはありません。偉大な虚構、映画史の中で燦然と輝くアルノを夢見てこの手紙を終えます。
中西アルノへの手紙 ~虚構についてのファンレター(5枚)~
僕はアルノの真面目で不器用な所が好きです。アルノが歩んできた道は全てが意志によって舗装され強く輝いています。今や乃木坂46を眼差すファンは、語弊を恐れず言うのであれば、暗闇の中の輝きを好まなくなってしまいました。暗闇の中の輝きの尊さよりも、暗闇それ自体を自身の視野に収めることを嫌うからです。僕達乃木坂46のファンはコタツの中でアイスを食べ、外で降り積もる雪を景色にします。寒空の中で見るマッチの炎は強く輝いている。僕は乃木坂46以前のアルノに対し、強くこう感じました。乃木坂46はアルノを家に招き入れ、そして今僕達はコタツでゴロゴロするアルノを観ています。その温もりはインターネットで猫の動画を見続けるかのようで、子供の頃に降り積もる雪で遊びかじかんでしまった手の赤らみ、そのズキズキとした感覚を忘れてしまっています。
5期生が乃木坂46に加入してから、アルノを中心に乃木坂46を観るようになりました。僕が単純で”尾崎豊を歌う中西アルノ”という記号にマッチの炎を見出してしまったせいでしょう。或いは、アルノの目が黒く、目の前の景色(観客とサイリウム、これらの声援)を何も映していない所を目撃してしまったからかもしれません。今のアルノの眼はしっかりと乃木坂46を映しています。騒動の最中に「Actually…」で表題センターに選ばれたアルノは、今までで一番デビューを祝われなかったアイドルなのではないかと思います。あの理不尽に対して、アルノが気丈に振舞っているように見え、そして実際にあの時期を乗り越えられたのは、なによりアルノが乃木坂46を必要としていたからではないかと思うに至りました。今までのオーディションで乃木坂46に必要な人達が選ばれる中、アルノ本人が誰よりも乃木坂46を必要としていたからこそ乃木坂46の5期生に選ばれ、表題曲のセンターに選ばれたような気がします(生駒里奈や他1期生数人もそのような人物であったかもしれません)。その主従関係を引っ繰り返す意志こそ、今乃木坂46に一番足りていないモノのような気がします。
アルノはこれからどんなアイドルになっていくのでしょうか?アルノは未だに許せないことや怒りはありますか?闘う必要があると思っていますか?あるならば嬉しいし未来に期待をします。無いならばその方が嬉しいです。アルノにとって、乃木坂46はどのような場所になりましたか?温かいですか?生駒里奈や齋藤飛鳥、山下美月といった中心人物は、乃木坂46の温かさの中で、常にどうしようもなさと向き合い続けていたと思います。それは、乃木坂46という虚構を引き受ける際にどうしようもなく付いて回るものです。井上和もまた既に乃木坂46であることを求められ、『乃木坂46であること』と正面から闘い続ける運命にあります。アルノもまた表題曲のセンター経験者として『乃木坂46であること』と闘い続ける宿命を背負っていますが、その中身は正反対です。『乃木坂46であること』の重ねた年月が創り出してしまったつまらない規範を壊す存在としての宿命です。最早、これを無視することも出来るとは思いますが(それこそがアルノの持つ強さです)、これと闘い続けて欲しいというのが僕の至極勝手な願望です。
アルノはこれからどんなアイドルになっていくのでしょうか?アルノは未だに許せないことや怒りはありますか?闘う必要があると思っていますか?あるならば嬉しいし未来に期待をします。無いならばその方が嬉しいです。アルノにとって、乃木坂46はどのような場所になりましたか?温かいですか?生駒里奈や齋藤飛鳥、山下美月といった中心人物は、乃木坂46の温かさの中で、常にどうしようもなさと向き合い続けていたと思います。それは、乃木坂46という虚構を引き受ける際にどうしようもなく付いて回るものです。井上和もまた既に乃木坂46であることを求められ、『乃木坂46であること』と正面から闘い続ける運命にあります。アルノもまた表題曲のセンター経験者として『乃木坂46であること』と闘い続ける宿命を背負っていますが、その中身は正反対です。『乃木坂46であること』の重ねた年月が創り出してしまったつまらない規範を壊す存在としての宿命です。最早、これを無視することも出来るとは思いますが(それこそがアルノの持つ強さです)、これと闘い続けて欲しいというのが僕の至極勝手な願望です。
アルノは、そもそも虚構を愛していますか?虚構の自分を作りたいですか?それは、つまり俳優やアーティストという虚像への自己逃避が必要かという質問です。なぜこんなことを聞くのかと言うと、僕はアルノが乃木坂46を必要としていた理由は虚構の自分を生み出したかったからではないかと勝手に思っているからです。アルノが映画を恐ろしいほど観ている事はもうファンにとって周知の事実だと思います。映画鑑賞において得られる虚構へと飛び込んだ際の快楽、その最果てに乃木坂46への加入という選択肢が存在していたのだと僕は考えています。そうして乃木坂46へと飛び込んだ後、乃木坂46の先輩たちが舞台や映画・ドラマに出演していることからも、アルノも加入して早々に演技の道に進みたいと言及するのではないかと僕は思っていました。加入してからもう少しで2年が経とうとしている中、中西アルノが演技への欲望にストレートに言及していないのは、アルノが正しく「映画」の偉大さに対し恐れを抱いているからではないか?と思うに至りました。映画、虚構に対して憧れ畏れているからこそ安易に「やってみたいです!」等と言えないのではないかと。しかし、その畏れこそが最も俳優が持つべき感覚であると僕は思います。乃木坂46での活動、それ自体がまずほぼ現実とは思えないような光景であり、そこに身を置くことは虚構を生業とすることと近しいはずです。アイドルとしての生活は、他のメンバーも同様に、望む望まないに関わらず虚構へとアルノを引っ張っているはずです。”中西アルノ”と”乃木坂46の中西アルノ”との距離、その乖離が生じ始めていることに対する恐れを抱いていると、今のアルノを観ていると強く感じます。今のアルノは”中西アルノ”でいたいと思っているように見えます(そう思って乃木坂46の活動の中で”中西アルノ”でいられることもまたアルノの持つ強さです)。僕は、”乃木坂46の中西アルノ”が遠くに飛ばされてしまうことを受け入れたその先に広がる世界を、”中西アルノ”も求めているはずだと信じています。
中西アルノは乃木坂46よりも優しさの射程が広く、故に寂しいはずです。だからこそ、乃木坂46を導いていく存在になれると思っています。自身の立ち位置への怒りを持ち続けて欲しいと僕は思っています。寂しさを受け入れ続ける必要はありません。アルノのわがままは最早求められています。センターからアンダーセンターへ、そしてまた表題センターへと上り詰める中西アルノと、その節目節目の表情に期待をします。井上和と中西アルノという孤高が2人同時に存在する景色までそう時間はかからないはずです。アルノが乃木坂46よりも大きな虚構を生み出すことができる器だと僕は信じて止みません。そんな、中西アルノと画面を通して出会い、中西アルノが中西アルノでは無い存在として画面の中で人生を歩んでいる姿を僕は観たいです。テレビよりもライブよりも目の前に存在するよりも映画館の画面の中で輝く中西アルノで在って欲しいと僕は願います。映画が進むほどに俳優本人の生活、実存が遠ざかっていき、登場人物がさも存在し、永遠にこの物語を繰り返すことを恐れていないかのような、あの感覚を感じることができるならこれ以上嬉しいことはありません。偉大な虚構、映画史の中で燦然と輝くアルノを夢見てこの手紙を終えます。
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中西アルノへの手紙 ~虚構についてのファンレター(5枚)~
僕はアルノの真面目で不器用な所が好きです。アルノが歩んできた道は全てが意志によって舗装され強く輝いています。今や乃木坂46を眼差すファンは、語弊を恐れず言うのであれば、暗闇の中の輝きを好まなくなってしまいました。暗闇の中の輝きの尊さよりも、暗闇それ自体を自身の視野に収めることを嫌うからです。僕達乃木坂46のファンはコタツの中でアイスを食べ、外で降り積もる雪を景色にします。寒空の中で見るマッチの炎は強く輝いている。僕は乃木坂46以前のアルノに対し、強くこう感じました。乃木坂46はアルノを家に招き入れ、そして今僕達はコタツでゴロゴロするアルノを観ています。その温もりはインターネットで猫の動画を見続けるかのようで、子供の頃に降り積もる雪で遊びかじかんでしまった手の赤らみ、そのズキズキとした感覚を忘れてしまっています。
5期生が乃木坂46に加入してから、アルノを中心に乃木坂46を観るようになりました。僕が単純で”尾崎豊を歌う中西アルノ”という記号にマッチの炎を見出してしまったせいでしょう。或いは、アルノの目が黒く、目の前の景色(観客とサイリウム、これらの声援)を何も映していない所を目撃してしまったからかもしれません。今のアルノの眼はしっかりと乃木坂46を映しています。騒動の最中に「Actually…」で表題センターに選ばれたアルノは、今までで一番デビューを祝われなかったアイドルなのではないかと思います。あの理不尽に対して、アルノが気丈に振舞っているように見え、そして実際にあの時期を乗り越えられたのは、なによりアルノが乃木坂46を必要としていたからではないかと思うに至りました。今までのオーディションで乃木坂46に必要な人達が選ばれる中、アルノ本人が誰よりも乃木坂46を必要としていたからこそ乃木坂46の5期生に選ばれ、表題曲のセンターに選ばれたような気がします(生駒里奈や他1期生数人もそのような人物であったかもしれません)。その主従関係を引っ繰り返す意志こそ、今乃木坂46に一番足りていないモノのような気がします。
アルノはこれからどんなアイドルになっていくのでしょうか?アルノは未だに許せないことや怒りはありますか?闘う必要があると思っていますか?あるならば嬉しいし未来に期待をします。無いならばその方が嬉しいです。アルノにとって、乃木坂46はどのような場所になりましたか?温かいですか?生駒里奈や齋藤飛鳥、山下美月といった中心人物は、乃木坂46の温かさの中で、常にどうしようもなさと向き合い続けていたと思います。それは、乃木坂46という虚構を引き受ける際にどうしようもなく付いて回るものです。井上和もまた既に乃木坂46であることを求められ、『乃木坂46であること』と正面から闘い続ける運命にあります。アルノもまた表題曲のセンター経験者として『乃木坂46であること』と闘い続ける宿命を背負っていますが、その中身は正反対です。『乃木坂46であること』の重ねた年月が創り出してしまったつまらない規範を壊す存在としての宿命です。最早、これを無視することも出来るとは思いますが(それこそがアルノの持つ強さです)、これと闘い続けて欲しいというのが僕の至極勝手な願望です。
アルノは、そもそも虚構を愛していますか?虚構の自分を作りたいですか?それは、つまり俳優やアーティストという虚像への自己逃避が必要かという質問です。なぜこんなことを聞くのかと言うと、僕はアルノが乃木坂46を必要としていた理由は虚構の自分を生み出したかったからではないかと勝手に思っているからです。アルノが映画を恐ろしいほど観ている事はもうファンにとって周知の事実だと思います。映画鑑賞において得られる虚構へと飛び込んだ際の快楽、その最果てに乃木坂46への加入という選択肢が存在していたのだと僕は考えています。そうして乃木坂46へと飛び込んだ後、乃木坂46の先輩たちが舞台や映画・ドラマに出演していることからも、アルノも加入して早々に演技の道に進みたいと言及するのではないかと僕は思っていました。加入してからもう少しで2年が経とうとしている中、中西アルノが演技への欲望にストレートに言及していないのは、アルノが正しく「映画」の偉大さに対し恐れを抱いているからではないか?と思うに至りました。映画、虚構に対して憧れ畏れているからこそ安易に「やってみたいです!」等と言えないのではないかと。しかし、その畏れこそが最も俳優が持つべき感覚であると僕は思います。乃木坂46での活動、それ自体がまずほぼ現実とは思えないような光景であり、そこに身を置くことは虚構を生業とすることと近しいはずです。アイドルとしての生活は、他のメンバーも同様に、望む望まないに関わらず虚構へとアルノを引っ張っているはずです。”中西アルノ”と”乃木坂46の中西アルノ”との距離、その乖離が生じ始めていることに対する恐れを抱いていると、今のアルノを観ていると強く感じます。今のアルノは”中西アルノ”でいたいと思っているように見えます(そう思って乃木坂46の活動の中で”中西アルノ”でいられることもまたアルノの持つ強さです)。僕は、”乃木坂46の中西アルノ”が遠くに飛ばされてしまうことを受け入れたその先に広がる世界を、”中西アルノ”も求めているはずだと信じています。
中西アルノは乃木坂46よりも優しさの射程が広く、故に寂しいはずです。だからこそ、乃木坂46を導いていく存在になれると思っています。自身の立ち位置への怒りを持ち続けて欲しいと僕は思っています。寂しさを受け入れ続ける必要はありません。アルノのわがままは最早求められています。センターからアンダーセンターへ、そしてまた表題センターへと上り詰める中西アルノと、その節目節目の表情に期待をします。井上和と中西アルノという孤高が2人同時に存在する景色までそう時間はかからないはずです。アルノが乃木坂46よりも大きな虚構を生み出すことができる器だと僕は信じて止みません。そんな、中西アルノと画面を通して出会い、中西アルノが中西アルノでは無い存在として画面の中で人生を歩んでいる姿を僕は観たいです。テレビよりもライブよりも目の前に存在するよりも映画館の画面の中で輝く中西アルノで在って欲しいと僕は願います。映画が進むほどに俳優本人の生活、実存が遠ざかっていき、登場人物がさも存在し、永遠にこの物語を繰り返すことを恐れていないかのような、あの感覚を感じることができるならこれ以上嬉しいことはありません。偉大な虚構、映画史の中で燦然と輝くアルノを夢見てこの手紙を終えます。
ビジュアルの高低差凄すぎてでこぼこ
それだけだ
なぎさつはアルノ復活までのつなぎだったのだ🥲
どっち待ってても叶う前に死んじゃうぞ?
アンチはまだ見ぬ6期生にすがるしかない
まさにザコ笑
なぎの声が聞こえてくる歩道橋
ユニゾンパートで聞こえてくるのは
アルノの声
僕らの気付かないところで
既に井上中西体制は進んでいる
6期とかまだ募集もしてない7期が強くないとアルノが2回目のセンターやる未来は無い
もうええで
中西アルノへの手紙 ~虚構についてのファンレター(5枚)~
僕はアルノの真面目で不器用な所が好きです。アルノが歩んできた道は全てが意志によって舗装され強く輝いています。今や乃木坂46を眼差すファンは、語弊を恐れず言うのであれば、暗闇の中の輝きを好まなくなってしまいました。暗闇の中の輝きの尊さよりも、暗闇それ自体を自身の視野に収めることを嫌うからです。僕達乃木坂46のファンはコタツの中でアイスを食べ、外で降り積もる雪を景色にします。寒空の中で見るマッチの炎は強く輝いている。僕は乃木坂46以前のアルノに対し、強くこう感じました。乃木坂46はアルノを家に招き入れ、そして今僕達はコタツでゴロゴロするアルノを観ています。その温もりはインターネットで猫の動画を見続けるかのようで、子供の頃に降り積もる雪で遊びかじかんでしまった手の赤らみ、そのズキズキとした感覚を忘れてしまっています。
5期生が乃木坂46に加入してから、アルノを中心に乃木坂46を観るようになりました。僕が単純で”尾崎豊を歌う中西アルノ”という記号にマッチの炎を見出してしまったせいでしょう。或いは、アルノの目が黒く、目の前の景色(観客とサイリウム、これらの声援)を何も映していない所を目撃してしまったからかもしれません。今のアルノの眼はしっかりと乃木坂46を映しています。騒動の最中に「Actually…」で表題センターに選ばれたアルノは、今までで一番デビューを祝われなかったアイドルなのではないかと思います。あの理不尽に対して、アルノが気丈に振舞っているように見え、そして実際にあの時期を乗り越えられたのは、なによりアルノが乃木坂46を必要としていたからではないかと思うに至りました。今までのオーディションで乃木坂46に必要な人達が選ばれる中、アルノ本人が誰よりも乃木坂46を必要としていたからこそ乃木坂46の5期生に選ばれ、表題曲のセンターに選ばれたような気がします(生駒里奈や他1期生数人もそのような人物であったかもしれません)。その主従関係を引っ繰り返す意志こそ、今乃木坂46に一番足りていないモノのような気がします。
アルノはこれからどんなアイドルになっていくのでしょうか?アルノは未だに許せないことや怒りはありますか?闘う必要があると思っていますか?あるならば嬉しいし未来に期待をします。無いならばその方が嬉しいです。アルノにとって、乃木坂46はどのような場所になりましたか?温かいですか?生駒里奈や齋藤飛鳥、山下美月といった中心人物は、乃木坂46の温かさの中で、常にどうしようもなさと向き合い続けていたと思います。それは、乃木坂46という虚構を引き受ける際にどうしようもなく付いて回るものです。井上和もまた既に乃木坂46であることを求められ、『乃木坂46であること』と正面から闘い続ける運命にあります。アルノもまた表題曲のセンター経験者として『乃木坂46であること』と闘い続ける宿命を背負っていますが、その中身は正反対です。『乃木坂46であること』の重ねた年月が創り出してしまったつまらない規範を壊す存在としての宿命です。最早、これを無視することも出来るとは思いますが(それこそがアルノの持つ強さです)、これと闘い続けて欲しいというのが僕の至極勝手な願望です。
アルノは、そもそも虚構を愛していますか?虚構の自分を作りたいですか?それは、つまり俳優やアーティストという虚像への自己逃避が必要かという質問です。なぜこんなことを聞くのかと言うと、僕はアルノが乃木坂46を必要としていた理由は虚構の自分を生み出したかったからではないかと勝手に思っているからです。アルノが映画を恐ろしいほど観ている事はもうファンにとって周知の事実だと思います。映画鑑賞において得られる虚構へと飛び込んだ際の快楽、その最果てに乃木坂46への加入という選択肢が存在していたのだと僕は考えています。そうして乃木坂46へと飛び込んだ後、乃木坂46の先輩たちが舞台や映画・ドラマに出演していることからも、アルノも加入して早々に演技の道に進みたいと言及するのではないかと僕は思っていました。加入してからもう少しで2年が経とうとしている中、中西アルノが演技への欲望にストレートに言及していないのは、アルノが正しく「映画」の偉大さに対し恐れを抱いているからではないか?と思うに至りました。映画、虚構に対して憧れ畏れているからこそ安易に「やってみたいです!」等と言えないのではないかと。しかし、その畏れこそが最も俳優が持つべき感覚であると僕は思います。乃木坂46での活動、それ自体がまずほぼ現実とは思えないような光景であり、そこに身を置くことは虚構を生業とすることと近しいはずです。アイドルとしての生活は、他のメンバーも同様に、望む望まないに関わらず虚構へとアルノを引っ張っているはずです。”中西アルノ”と”乃木坂46の中西アルノ”との距離、その乖離が生じ始めていることに対する恐れを抱いていると、今のアルノを観ていると強く感じます。今のアルノは”中西アルノ”でいたいと思っているように見えます(そう思って乃木坂46の活動の中で”中西アルノ”でいられることもまたアルノの持つ強さです)。僕は、”乃木坂46の中西アルノ”が遠くに飛ばされてしまうことを受け入れたその先に広がる世界を、”中西アルノ”も求めているはずだと信じています。
中西アルノは乃木坂46よりも優しさの射程が広く、故に寂しいはずです。だからこそ、乃木坂46を導いていく存在になれると思っています。自身の立ち位置への怒りを持ち続けて欲しいと僕は思っています。寂しさを受け入れ続ける必要はありません。アルノのわがままは最早求められています。センターからアンダーセンターへ、そしてまた表題センターへと上り詰める中西アルノと、その節目節目の表情に期待をします。井上和と中西アルノという孤高が2人同時に存在する景色までそう時間はかからないはずです。アルノが乃木坂46よりも大きな虚構を生み出すことができる器だと僕は信じて止みません。そんな、中西アルノと画面を通して出会い、中西アルノが中西アルノでは無い存在として画面の中で人生を歩んでいる姿を僕は観たいです。テレビよりもライブよりも目の前に存在するよりも映画館の画面の中で輝く中西アルノで在って欲しいと僕は願います。映画が進むほどに俳優本人の生活、実存が遠ざかっていき、登場人物がさも存在し、永遠にこの物語を繰り返すことを恐れていないかのような、あの感覚を感じることができるならこれ以上嬉しいことはありません。偉大な虚構、映画史の中で燦然と輝くアルノを夢見てこの手紙を終えます。
アルノは、そもそも虚構を愛していますか?虚構の自分を作りたいですか?それは、つまり俳優やアーティストという虚像への自己逃避が必要かという質問です。なぜこんなことを聞くのかと言うと、僕はアルノが乃木坂46を必要としていた理由は虚構の自分を生み出したかったからではないかと勝手に思っているからです。アルノが映画を恐ろしいほど観ている事はもうファンにとって周知の事実だと思います。映画鑑賞において得られる虚構へと飛び込んだ際の快楽、その最果てに乃木坂46への加入という選択肢が存在していたのだと僕は考えています。そうして乃木坂46へと飛び込んだ後、乃木坂46の先輩たちが舞台や映画・ドラマに出演していることからも、アルノも加入して早々に演技の道に進みたいと言及するのではないかと僕は思っていました。加入してからもう少しで2年が経とうとしている中、中西アルノが演技への欲望にストレートに言及していないのは、アルノが正しく「映画」の偉大さに対し恐れを抱いているからではないか?と思うに至りました。映画、虚構に対して憧れ畏れているからこそ安易に「やってみたいです!」等と言えないのではないかと。しかし、その畏れこそが最も俳優が持つべき感覚であると僕は思います。乃木坂46での活動、それ自体がまずほぼ現実とは思えないような光景であり、そこに身を置くことは虚構を生業とすることと近しいはずです。アイドルとしての生活は、他のメンバーも同様に、望む望まないに関わらず虚構へとアルノを引っ張っているはずです。”中西アルノ”と”乃木坂46の中西アルノ”との距離、その乖離が生じ始めていることに対する恐れを抱いていると、今のアルノを観ていると強く感じます。今のアルノは”中西アルノ”でいたいと思っているように見えます(そう思って乃木坂46の活動の中で”中西アルノ”でいられることもまたアルノの持つ強さです)。僕は、”乃木坂46の中西アルノ”が遠くに飛ばされてしまうことを受け入れたその先に広がる世界を、”中西アルノ”も求めているはずだと信じています。
キモオタが偉そうに自分の意見述べんな誰も聞いてねーよキモキモキモ
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