AKB最初の卒業生・宇佐美友紀のインタビューがなかなか面白い

1名無し48さん2025/11/03(月) 14:54:54.87
https://www.dailyshincho.jp/article/2025/11020800/?all=1#
メンバーだった当時、公演の最初に自己紹介のキャッチフレーズを考えたんですが、最初はマネージャーに「一人だけ目立とうとしないで」と言われました。私は「宇佐美友紀です」という名前だけでは、たくさんいるメンバーの中で埋もれてしまうと思ったんです。

ですから、何か印象に残る言葉を付けた方が覚えてもらえると思って、「ちっちゃいけどナイスバディの宇佐美友紀です」というようなことを言ってみました。スタッフから「そういうの、いらないから」と言われてしまって(笑)。

でも、数か月後には、みんながキャッチフレーズを作る方針になって、全員が長めの自己紹介をするようになりました。それが今も継承されていて、うれしい気持ちになりますね。

最初に、AKB48の楽曲のタイトルロゴを書いたのも私なんです。「桜の花びらたち」なのですが、そのタイトルをみんなで書こうというので、スケッチブックを渡されたんです。私が見本として1ページ目に書いた文字が、そのまま採用されました。後で印刷されたものを見て気づいて、驚きましたね。

AKB48の在籍期間はわずかでしたが、何となく活躍するとは思っていました。Mステや紅白歌合戦のような大きな舞台に立ったり、メンバーがドラマに出たりするだろうなと。ただ、グループが20年間も継続し、他の48グループに派生していくとは想像もできませんでした。スポンサーリンク


2名無し48さん2025/11/03(月) 14:57:20.23
https://www.dailyshincho.jp/article/2025/11020801/?all=1
高校を卒業すると、大学ではなく、アナウンスの専門学校に進みました。大学で4年間学ぶよりも、専門学校で2年間、集中的に学んで、すぐに社会に出て仕事をしたいという気持ちが強かったんです。

通ったのは、東京にあるアナウンスの専門学校です。アナウンス科は2クラスで、1クラス20人くらいが在籍していましたが、アナウンサーになることの厳しさを知って、辞めていく子が多かったです。

私も途中で「アナウンサーになるには普通、大学を出ていないとなれない」という現実に気づくんです。私のような「無知で、田舎から出てきたアナウンサーになりたい人」が集まっていたので、「思っていたのと違う」とあきらめた子もいたと思います。

ただ、ある時チャンスがきたんです。入学して2か月くらい経った頃、外部講師として「大橋巨泉事務所」の方が授業に来てくださる機会がありました。でも、なぜか、その日、私は休んでしまい、後日、事務所のマネージャーさんから連絡がありました。私のプロフィールを見てくださったようで、「こんなにやる気があって、専門学校に入ったのに、なぜ休んだの?」と、声をかけてくださったんです。

それがきっかけで、「9月から始まる番組のリポーターのオーディションがあるんだけど、行ってみない?」と声をかけていただきました。当時はまだ事務所に所属するという話ではなく、あくまでオーディションを受けてみないか、という打診でした。そのオーディションに合格したことで、大橋巨泉事務所に所属が決まったんです。

そこからは、専門学校に通いながら、千葉テレビの番組でリポーターの仕事を始めました。お笑いコンビ・アンジャッシュさんが司会を務めていた公開生放送で、私はディズニーリゾートの取材やリポートをスタジオで紹介するディズニーコーナーの担当でした。放送後は観覧に来た方々との交流時間があったので人生初めてのサインはおそらくここで書かせて頂いたものだったと思います。

私を担当してくれたのは、竹下景子さんのマネージャーをされている方でした。文化人の方々をサポートするような事務所だったため、若い世代を育てたいという意向があったようです。

今思えばとても手厚く育ててもらっていたのだと感じます。ただ、番組自体は1年ほどで、終了してしまいました。当時20歳、専門学校を卒業するタイミングです。事務所に残っても一人暮らしができるほどの仕事があるかと言えば、そうではない状況でした。マネージャーさんからは「このまま事務所に残ってもいいが、他を探す方が良いかもしれない」と言われたんです。

そこから、私はオーディション雑誌を買い漁り、色々なオーディションやコンテストを探し始めました。当時は年齢制限が設けられていることが多く、22歳くらいで足切りになってしまうような状況で、「今しか応募できないんだ」という焦りもありましたね。

そんな中で、オーディション雑誌に載っていたのが、秋元康さんがプロデュースするアイドルプロジェクトでした。秋葉原に専用劇場ができる予定で、毎日のライブのMC(司会)を募集しているという内容だったんです。

私はもともとアイドルが好きで、応援する側の人間だったので、「アイドルと仕事ができる」という点に強く惹かれました。さらに、秋元さんプロデュースで、専用劇場で毎日ライブを行うというプロジェクト自体が、「これは当たらないわけがない」と直感したんです。

当初、アイドルになるつもりは全くなく、あくまで「司会の仕事ってどんな感じですか?」というスタンスでアポイントを取り、プロフィールを持参して説明を聞きに行きました。

すると、担当の方が「この書類でメンバーの方でもエントリーできますよ」と勧めてくれたんです。私は「いえ、大丈夫です」と断ったのですが、その方は「このプロジェクトはこれから大きくなるから、チャンスだよ。後のことは受かったら、考えればいい」と熱心に言ってくださいました。

メンバー募集の年齢制限には、ギリギリひっかからなかったんです。でも、私は「いやいや」と渋っていたら、「司会の枠がなくなりました」と言われてしまい……。

私は「マネージャーは募集していますか? とにかくこのプロジェクトに関わりたいんです」と伝えました。すると、「だったらなおさら、一度メンバーで応募してみたら」と言われ、最終的にメンバーオーディションを受けることになったんです。

3名無し48さん2025/11/03(月) 14:58:59.50
https://www.dailyshincho.jp/article/2025/11020803/?all=1
合格者だけが隣の部屋に移動し、今後の話を聞きました。その場で、デビューメンバーが20人くらいだとわかりましたね。その後、レッスンを受けていく中で、現実的な厳しさや親の反対などで、デビュー前に何人か辞めていく子もいました。

レッスン期間は3か月程度だったと思いますが、ほぼ素人だった私には大変でしたね。ダンスも歌も経験がなく、振り付けを覚えるのもかなり苦労しました。レッスンは夏さんのお弟子さんが主に来てくださっていて、立ち位置を決めるときなどは夏さん本人が必ず来ていました。

プロジェクトの初期段階であったため、秋元康さん自身がメンバーたちの雰囲気を見て曲を書き、歌詞や歌割りを決定していました。ほぼ毎日レッスンがありましたので秋元先生が現場に顔を出すのは、節目に限られていましたが、言葉一つ一つが、グループの方向性を決定づけるので、非常に緊張感がありました。

デビュー前のメンバーたちは、みんなが「本当に大丈夫なのかな」「私たちデビューできるのかな」と不安を感じている状態でした。小中学生のメンバーは特にまだまだかわいい子どもで外イベントの待機時間にはどんぐりを拾って投げ合っていたのを覚えています。

メンバー間にはライバル意識のようなものはなく、「私たちは大きなプロジェクトの最初のメンバーだから、みんなでがんばろう」という意識でやっていましたね。

センターに立つのはみなうっすらとわかっている感じでしたね。あっちゃん(前田敦子)かな、たかみな(高橋みなみ)かなとか。中学生組が真ん中で、その周りをパフォーマンスができる高校生組がかためるというフォーメーションでしたね。

ただ、私はデビューする前から、年齢が1つ上のマネージャーには「辞めたい」とずっと伝えていました。レッスンについていけない、振り付けも歌詞も覚えられない、ステージの移動も分からない、と訴えていたんです。

「全て未経験でこの年齢の私には無理だと思う、本当に」と。

マネージャーからは「デビューしたら気持ちが変わるかもしれないから」と言われ、そのままデビューしたのですが、「辞めたい」という気持ちは常に心のどこかにありましたね。

4名無し48さん2025/11/03(月) 15:01:01.99
https://www.dailyshincho.jp/article/2025/11031101/?all=1
ただ、お客さんの熱気とは裏腹に、私は正直なところ、「アイドルとして表に出てしまっていいのかな?」「21歳なのに制服を着て踊っているけど、これで本当にいいのかな?」という思いが強くなっていきました。

センターポジションは自然と中学生組が務めることが多く、年長の私は端の方のポジションが常でした。年齢制限ギリギリで入った私は、入った瞬間から卒業するまでずっと「最年長」。センターになることはないだろうと頭では分かっていましたが、実際に舞台に立つと、複雑な気持ちでした。

次第に「私は何のために頑張っているんだろう?」「今のこの時間は、何のための時間なんだろう?」という自問自答が始まりました。アイドルが好きで、秋元康さんのプロデュース、(ダンスプロデューサーの)夏まゆみ先生の振り付けで踊れるというのは、夢のような時間だったんですが……。

周りの若いメンバーたちが、これからAKB48としてテレビなどの表舞台に立つ未来が広がっているとわかるからこそ、私の中で迷いが大きくなっていきました。

体力的な限界も感じていました。当時のAKB48は1チームしかなかったので、チームKができるまでは全ての公演を自分たちだけでこなさなければならず、休みはほとんどありませんでした。土日には2回公演を行うこともあり、まさに体力勝負ですね。

当時、私は秋葉原に住んでいました。友達とルームシェアをしていたのですが、劇場と自宅の往復はマネージャーが車で送迎してくれていたため、ドアtoドアの生活で、外の空気に触れる機会もほとんどありません。

劇場公演をこなすのが精いっぱいで、じっくり考える時間も気力もなく、精神的に疲弊していったと思います。年が近かった折井あゆみや星野みちるとは「これからどうなるのかな?」という話をよくしていました。

ただ、デビューしてオリジナルメンバーとしてステージに立ったからには1か月で辞めるわけにもいかず、どうしたらみんなの士気を下げずに辞めることができるのかタイミングを計っていて、ワンクール(3か月)で、セットリストを変えると言われていたので、そのタイミングかなと考えていました。

そんな時、「Mステ」への出演が決まったんです。Mステに出るということは、AKB48の活動が世の中に大きく知れ渡るということですよね。ただ、そこにはスカートの丈が短い制服を着て、出なければいけませんでした。

もう「辞めよう」と思っていた私にとって、制服を着て、ステージの端っこで踊る21歳の自分が、全国に知られることに耐えられなかったんです。

私は結局、Mステには出演しませんでした。Mステに出る曲のジャケット写真を撮る際も、私は欠席しました。みんなは「写真撮る時いなかったね」とざわついたそうですが、「体調が悪かったから休んだのかな」と一時的には収まっていたようでした。その時にはAKB48を辞めるということは概ね決まっていましたが、絶対に他言しないよう約束していたのでメンバーはもちろん近しい人にも話すことはありませんでした。

5名無し48さん2025/11/03(月) 15:02:58.67
https://www.dailyshincho.jp/article/2025/11031102/?all=1
2006年12月のデビューから、3か月。私の卒業を秋元康さんに直接相談したのは、07年3月の公演直前でした。マネージャーには以前から「辞めたい」という意思を伝えていたので、いよいよもう引き止めるのは難しいと判断された時に「秋元先生にも直接気持ちを伝えにいこう」ということになりました。

面談は、劇場のスタッフルームのような狭い部屋で行われ、マネージャーなどを含め5、6人が同席していました。かなり緊迫した場面でしたが、意外にも秋元さんは穏やかでした。

私が入室した時、秋元さんたちは談笑されていて、リラックスした雰囲気でした。「辞めさせていただきたくて……不満があるわけではないけれど、自分の人生の中で区切りをつけたいと思いました」という内容を伝えました。

さらに、続けて「アイドルが好きで、辞める時に自分のDVDを出したいと思っているんですが、協力してくれませんか?」とダメ元でお願いしたんです。すると秋元さんは「いいよ」と言ってくれて、まさかの卒業DVDを作ってくれることになりました。

周りのマネージャーからは「もう少し頑張れないか」と引き止められましたが、秋元さんは、おそらくメンバーが辞めることも想定内だったのでしょう。「変な形で終わるよりも、円満に終わって、卒業後もこんな道があるんだよ、と卒業生第1号として見せることができれば、みんなも安心するから、一緒に道を作りましょう」という感じで提案してくれました。

2006年3月23日、私の卒業公演の日が来ました。辞めることを、劇場に足を運んでくれていたファンの方に自分の口から直接伝えたいという希望を叶えてもらった形です。メンバーには卒業することを伝えていなかったので、最後に私が一人で挨拶をする時間が設けられた時は、みんなが「え、何だろう?」とざわついていました。

私は、みんなに心配をかけたくなかったし、前向きな決断だと思っていたので、明るい感じで話そうと決めていました。最後の挨拶では「うれしいお知らせがあります」と言った後、「これまで用意してもらった階段を上がってきたけれど、これからは自分で歩んでいこうと思います」と伝えました。

その瞬間、ステージ上は壮絶な感じになっちゃって……。メンバーたちが寄ってきて泣き崩れ、ステージに膝をついている映像が卒業DVDに残っています。きっと、マネージャーも「宇佐美は辞めないと思うよ」とメンバーに言っていたのでしょう。「寝耳に水」といった感じで、みんなパニック状態でしたね。

もちろん、そのままメンバーを続けて、Mステや紅白歌合戦に出たいというミーハーな気持ちはありました。ただ、冷静な自分が常にいて、「今ならまだ引き返せば、AKBではない普通の人生に戻れるかもしれない」と考えていたんです。

卒業という選択に、全く後悔はありません。憧れだった(ダンスプロデューサーの)夏まゆみ先生も「自分で決めたんだったら、正しいから大丈夫だよ」と言ってくださり、その言葉に救われましたね。辞めて、結果、良かったと思っています。

6名無し48さん2025/11/03(月) 15:09:42.91

まで読んだ
こんな人いたんだな
ありがとう

7名無し48さん2025/11/03(月) 15:17:11.43
中西にもインタビューしてほしい
8名無し48さん2025/11/03(月) 15:17:56.07
最初の卒業生というのは歴史に名を刻む
9名無し48さん2025/11/03(月) 15:20:39.68
すんごい貴重な話だった
10名無し48さん2025/11/03(月) 15:21:30.73
ファンの前で卒業をサプライズ発表という文化はこの人から始まったんだな

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11名無し48さん2025/11/03(月) 15:27:57.79
面白かった
顔も知らんし名前も初めて知ったけど
この人が幸せであるように祈る
12名無し48さん2025/11/03(月) 15:29:42.46
AKBが世間に全くカスリもしなかった時期か
13名無し48さん2025/11/03(月) 15:32:56.16
もともとやりたかった仕事ができてるようで良かった

>現在の活動は、千葉県のBAYFMの生放送が中心です。毎週火曜日のパーソナリティを担当させていただいて、11年間続けています。その他にも、イベントの司会やナレーションといった「喋る」仕事を続けています。また、地元である埼玉県三郷市のPR大使も務めさせていただいています。

14名無し48さん2025/11/03(月) 15:37:11.75
板野 ダンス
宇佐美 MC
浦野 シンデレラ
大江 天然
大島 MC
折井 リーダー
川崎 セレブ
小嶋 ビジュアル
佐藤 ビジュアル
高橋 歌
戸島 ビジュアル
中西 歌
成田 乳
平嶋 元気
星野 歌
前田 エース
増山 ロリ
峯岸 バラエティ
渡邊 セレブ

キャラが分別されてていいね

15名無し48さん2025/11/03(月) 15:37:48.91
卒業DVD出してるの?調べたところ全然ヒットしなかったが、会員限定だったとか?
16名無し48さん2025/11/03(月) 15:45:52.71

https://ameblo.jp/akihabara48/entry-10013939480.html
去年の12月のグランドオープン時から、第一期生として3月31日までAKB48に籍を置いていた、
宇佐美友紀の卒業DVDがついに完成いたしました!!

発売日は6月26日(月)の16時~です。
タイトル:SPECIAL EDITION AKB48 「Memories」/宇佐美友紀
収録時間:30分/¥2,500(消費税込み)

内容:3月31日(チームA千秋楽)あの日、宇佐美はどんな気持ちでステージに上がっていたのか?
わずか4ヶ月という僅かな期間で、宇佐美をはじめ、メンバーはどのように成長したのか?公演中に
は絶対にみることのできないメンバーの貴重な映像が盛りだくさんです。
オーディションの時から、卒業までの記録映像をはじめ、スペシャルインタビュー、オフショットも満載
のスペシャルDVD!!

是非、この機会にメンバーの新たな一面を皆様に知っていただけたらと思います。

17名無し48さん2025/11/03(月) 15:46:14.28
18名無し48さん2025/11/03(月) 15:46:50.44
スマン被った
ふつうにググッたら出てきたぞ
19名無し48さん2025/11/03(月) 15:53:44.43
7人の観客から始まって売れるまで苦労したとか言ってるけどデビューしてすぐMステだのBomber-Eだのに出られたんだよな
20名無し48さん2025/11/03(月) 15:54:16.69
中学生組はインタビューとかで初期の頃の大変さや下積みを強調しがちだけど大人組はちょっと視点が違って自分たちが恵まれてることを理解して活動してた感じあるね
まあ数ヶ月でMステとか普通はありえないもんね

それはそれとして進路選択までの時間が限られてたから長くは居られなかったのだろうけど

引用元:https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/uraidol/1762149294

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